「ホテル湯治館そよ風」    「ホテル熱海閣」より      最新情報をお届けします。    by ATAMI太郎


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熱海の恩人「成島柳北」

うしと見るよにたゝひとつたのしきはあたみのさとのゆあみなりけり
(うしと見る世にただひとつ 楽しきは熱海の さとの湯あみなりけり)

この歌は「マリンスパアタミ」の入り口にある「成島柳北翁の碑」の碑陰に刻んである柳北が詠んだ歌です。
柳北は、天保8年(1837)江戸に生まれ、安政元年(1854)に侍講(※注 じこう)見習いとなり、ついで侍講に進み、将軍家茂に経書を教えた人物です。
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慶応元年(1865)以来、次第に重用され、外国奉行から会計副総裁に進み、幕府行政の中核となりましたが、その後幕府が瓦解し離職いたしました。明治4年、浅草東本願寺学塾の学長に招かれ、翌年には東本願寺の法主に随行してヨーロッパやアメリカを旅行し、同6年に帰国しました。翌年の明治7年「朝野新聞(ちょうやしんぶん)」の主筆となり、軽妙で洒落の効いた文章で巧みに時事を風刺し、あるいは花街の風流を紹介して一般読者より賞賛を受けました。
朝野新聞はこの時代「読売」「東京日日」「郵便報知」と並ぶ発行部数がある大新聞でした。晩年(明治11~17年)の柳北は静養の地として「熱海温泉」をこよなく愛し、熱海について執筆しました。
当時の熱海は、政府の高官や政商達が集う東京の奥座敷の様相を呈していました。例えば、憲政史上有名な「熱海会談」には、伊藤博文・黒田清隆・大隈重信・井上馨など、当時の政治の中心人物が熱海に集まりました。
柳北により毎年のように執筆された熱海の遊記は、48歳で亡くなる4ヶ月前の明治17年7月に『熱海文藪(あたみぶんそう)』と題して1冊の本にまとめられました。これには政治家のみならず実業家や文人など、交友のある人々がたくさん出てきて、柳北の交際範囲が驚くほど広かったことが分かりました。当時の熱海ではもっぱらお互いの宿を訪ねたり、訪ねられたりして詩文を交換し碁盤を囲むというのが常だったようです。
柳北の文章は「朝野新聞」の看板で、彼の紀行文により熱海の美しい風光は改めて広く世間に知られるようになりました。
ジャーナリストであり文人であった柳北は、熱海温泉の恩人の一人として知られております。
 ※注 君主や東宮の御前で講義すること、またはする人を言います。  

熱海の歴史を調べる度に、熱海人として鼻が数ミリづつ高くなる・・・
 
004.gif ATAMI 太郎でした。
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by atami-toujikan | 2008-03-06 17:24 | 熱海観光情報